マーク・ ブレッカーによる戦争写真

2007年10月12日 カテゴリー: インターナショナル, フォトグラフィー, 環境・福祉デザイン

マーク・ ブレッカーによる戦争写真

2004年ダルフールにて。緊迫したティーンエージャー兵士の姿。©Mark Brecke

13年もの間、アメリカ人のマーク・ブレッカーは、自らをただ1つのプロジェクトに捧げている。それは、大量殺戮に対する犯罪を記録することだ。ドキュメンタリー写真家として、彼は90年代にはNATOと共にルワンダとコソボを訪れ、2002年にはインティファーダの真っ只中のヨルダン川西岸地区へと渡り、2003年のイラク侵略の間はアメリカの軍隊と共に行動し、その後はダルフールを訪れ数ヶ月を反乱軍と共に生活した。…驚くのは、それら全ては彼が単独で行ったことであり、複写したプレスパスを使うというような、ぶっ飛んだスタイルによってなされたということだ。今回PingMagは現在サンフランシスコにある彼の会社「ウォー・アンド・ウエディングス」を訪問し、話を聞いた。

作:ベレーナ
訳:ジュンコ

スーダンにて。2004年、東部チャドの難民キャンプに到着した力尽きたスーダン人の母親とその7人の子供達。©Mark Brecke

まず始めに、あなたの最初の作品についてお聞きしたいのですが…ベトナム戦争に関するドキュメンタリーですよね。

僕の最初のフィルムは、「ウォー・アズ・セカンド・ランゲージ(第二言語としての戦争)」という作品で、東南アジアに対する米国外交政策に関する内容です。90年代には、ベトナムが渡航先として世界の旅行者の間で人気となり、共産主義政府は、かつての状態よりは少しオープンになりました。それは実際とても奇妙なことですよ…特に、ベトナムが正に地獄だったことを知る多くのGIやベトナム人にとってはね。でも、意志に反してそこに送られるというような経験をしなかった若い世代にとっては、それは単に楽しい場所なのです。…ということは、65年から75年にかけてのあの戦争が残したものは、クチの地下道や多くの古い武器タンク、そしてジャングルの中で朽ちて行くのを待つだけの焼けた飛行機といった、単に失敗した政策の骸骨だけということなのです。今ではこれらの場所は観光名所となり、トンネルに入ってみたり、M16を打ったり、焼け残ったアメリカのタンクの横で写真を撮ったりすることができるんですよ。これらのツアーを行っているのは政府なのですが、それって超現実的ですよね。

難民キャンプにて。母親が瓦礫で家を造り直そうと試みる。©Mark Brecke


アメリカ軍と一緒に、イラクに行く為に必要なマーク・ブレッカー氏のクウェートでのプレス・パス。

…そういったものを撮影したんですか?

僕は、文化的、そして社会的な面…つまりアメリカ人達が、骸骨となった残骸機械と関わっている姿を収めたんです。8ミリと白黒のスチール写真を使って、集めた戦争の音やニュース映像と一緒にフィルムをつなぎあわせました。実は、その戦争のあらゆる場面にはマイクとレンズが存在していました。ベトナム戦争は歴史上最も多く記録された戦争の1つなんですが、それが今では、アフガニスタンやイラクで起こることを、衛星電話や衛星イメージなどのデジタルテクノロジーによって、部屋にいながらにしてリアルタイムで知ることができるのはどうも皮肉なことだと僕は感じています。しかも、それはすべて検閲され、現実と同じ近さではないんですよ…。

そのドキュメンタリーを終える前に、他のどこかに行かれたとか…?

大量殺戮に関する犯罪について長期プロジェクトを始めたので、90年代後半にはベトナム、ルワンダ、そしてバルカン諸国に行きました。ルワンダでは、とにかくただ写真を撮るためだけにそこにいました。それは今までに見た中で最も恐ろしい光景でしたよ…。バルカン諸国でも同じでした。僕の考えたのは、3つの異なる文化と3つの異なる大陸が一つにまとまり、ダルフールも共に21世紀に進むことだったんですが。

食料や水を得る為に、国際連合のファミリー・カードを差し出す女性。©Mark Brecke

では、初めてスーダンに行かれたのはいつですか?

2004年9月から2005年1月までのダルフール紛争が一番激しい頃です。まず、国連テントが設置されている東チャドで、避難民と共に過ごすことを始めました。僕は、ある特定のキャンプで、スーダン開放軍(SLA)に接触する事が出来るのを知っていたんです。実際それは衛星電話を通して後に行いましたよ。それから国境で、部隊に会うことが出来、その後2カ月を旅行に費やしました。これは、何が本当に地上で起こっているのかを知るための唯一の方法でした。反逆者と共に過ごすということが、僕にとっては、ある種のプロパガンダツールとなっているんですね。結局10年以上の間も僕はそうしてきてるし、ある時、確信したんですよ。…僕は、人道に対する罪だとか、政府がその国の人々に何をしているかを知る専門家である必要はないんだってね。

ダルフール政府と闘う反逆者達。2001年8月に運動が起こり、2003年に入るとその反抗の闘いは始まった。©Mark Brecke

どういうことでしょう…?

大量殺戮というのは、指紋のようなものだと思います。二つとして同じものは無くて、すべてが異なった形で実行されるからです。人は、大量殺戮と聞いたら、だいたいホロコーストやスターリンの2000万人殺戮なんかを基準として思いつくと思います。でも、ルワンダでは、大量殺戮のペースがとても速かったんですよ。100日間で80万人の命が奪われました。これが人間の手によって1対1で行われたものであり、しかも、ナタや斧といった本当に原始的な農機具が使われたものであるという事実が信じられますか。


スーダン解放軍の兵士達。スーダン解放運動(反逆者)は、2001年8月にダルフール地方で民間の人々から起きた。今では、ダルフールの80%を彼らが支配している。©Mark Brecke

自分の民族のお守りを付けるスーダン解放軍の兵士。©Mark Brecke

今、ダルフールでは、カンボジアのポル・ポト派といった集団が以前行ったようなことが行われています…人工的に作られた飢饉は最も古い大量破壊兵器の1つなんですよ。それは2、3000年間もの前から知られているものであり、非常に効果的なものです。作物を燃やし、水資源を汚染し、家畜をだめにすることで、人々を栄養不良にして死に追いやり、人口を焼き尽くしてしまうのです。特にダルフールの砂漠の中では、彼らは系統的にどんどん殺されていくだろうと思われます。

スーダン難民達は、イスラムの信者であることをコーランに誓い、自分たちが犠牲者である事を証明した。©Mark Brecke

そういったこと全てを目撃するために、どのように内部に入り込まれたのでしょうか?

現在ダルフールには、国連の保護下におかれたスレーマン・ジャモウスという男性がいます。彼はSLAの人道主義に関するコーディネーターで、NGOとジャーナリストのためにダルフールを通る安全な道を考えたり用意したりすることが仕事でした。しかし、それは2006年に彼がスーダン解放軍を指導するミンニ・ミンナウイによって逮捕されたことで終わりを告げました。現在、その地では色々なことがドラスティックに変化しています。でも、2004年に僕達が政府軍によって攻撃された時、ダルフールで物事がどれだけ間違った方向に進んでいるかを実感していた僕は、きっと反逆者たちは僕らをラクダの背に投げ上げ、チャドの境界からこっそり連れ出すだろうとも思いました。僕は国に戻った時はいつも、メディアに対して慎重なんですよ。それは、質素な民族の動きから始まったことであり、軍ではないからです。彼らは皆、この砂漠で戦うために居心地の良い人生をあきらめた学校教師、建築家、または医師といった人たちなんです…。歴史は、常にこれらの動きのありのままを示すというわけではありませんよ。今でもまだ、反逆者の破片があちこちに存在しています。和平協定はミンニ・ミンナウイによって備えられましたが、彼らは誰かを未だ撃ちさえするでしょう…。

アラブ兵士の攻撃を受けた犠牲者の死体。2004年の春、北部ダルフールにて。©Mark Brecke

それでも尚、戻りたかったんですか?

帰国してからも、僕には戻る意思もその機会もあります。でも、今はこのフィルム、「ゼイ・ターンド・イントゥ・アワ・デザート・ファイア(彼らが私達の砂漠を炎に変えた)」を完成させるのがより重要な課題になっています。それに、アメリカ中の100以上の場所で、ここ2年の間、講演旅行も行っているんです。以前ルワンダから戻った時、誰もそれらの写真や映像を見たがりませんでした。でも、その後初めて「ダルフールを守ろう」という学生のグループが現れ、そして、良かれ悪かれ便乗してきたハリウッドというものもあります。ダルフール問題は、ある意味、産業に渡ったのです。

ダルフールに関する最近のセレブ活動家には、ジョージ・クルーニーの国連安全保障理事会における演説や、中国国家主席へ送られたスティーブン・スピルバーグの手紙、そして最近では、ミラ・ソルビーノが行った広告を通して関心を高める運動などがある。

かつては村だった沢山の場所が燃え尽くされ、生活全てのものが破壊されてしまい、今は廃墟と化している。©Mark Brecke

産業についてもう少しお話を聞かせて下さい…

ハリウッドは、ここに来て、僕の仕事の領域について聞きたがりました。ホテル・ルワンダの後に続く「ホテル・ダルフール」という映画を作る考えがあったようですよ。それから、コンピュータゲーム会社が、彼らの下らない商品について、僕に後援するか、または宣伝して欲しいと言ってきました。 彼らは本当に哀れだと感じますよ。ティンバーランドは、「ダルフールを守ろう」ブーツを作ったり、その他の売上の一部をMSFに送ったりもしています。なんだか、そういうことが競争になっているんですよね…。でもこれは、僕にとっては何年もの間かかって自分の人生の焦点として行ってきたことなので、僕はこういうことに少し敏感になっているんです。認識と、それを組織的に宣伝することの間には、実際、越えることが難しい細い線があるのです。それは、現実にその状況にある人々の問題であり、あなたには絶対に分からないということです。

東部チャドでは、2万9千人もの人々がこのテントの張られた場所で暮らしている。©Mark Brecke


国際連合にコソボ訪問の許可を得る為のプレス・パス。

作品に関する多くの講演を経験し、そして最新のドキュメンタリー、「ゼイ・ターンド・イントゥ・アワ・デザート・ファイア」が出来ましたね?

実は、僕は上院議員から、キャピトル・ヒル(ワシントンD.C.の国会議事堂がある小丘)で演説するよう頼まれました。でも、税金をもらうわけにいかず、自分で経費を払わなければならないものとなるのに、僕にはそんなお金はありません。だから、アムトラックなどの公共輸送手段を使って行くことを考えました。そして思ったんです…この列車の上に3日間いなければならないとして、道中で乗客に僕の写真を見せ、最終的に24人の乗客に対してマンツーマンのパワーポイントのプレゼンをしたならば…。 基本的に、僕はこのとても悲惨な話を、12人の見知らぬ人に直接彼らの目を通して知って欲しかったし、彼らの意見も知りたかったのです。公共輸送を使い、そして東海岸から西海岸を通るアメリカの美しい風景に沿って、ダルフールの砂漠の過酷な状況関する読み切り小説を通して正しく伝えたかった。 また、僕らはより良い見解を与えるのに6人の話し手の専門家も頼みましたよ。

避難して来るのは女性と子供ばかり。なぜなら、男性は現地で闘っているか、もしくは殺されているかのどちらかなのだ。©Mark Brecke

資金はどうするんですか?

僕の作品は、100パーセント外国で資金調達され、そして、給料は全くありません。でも僕はそれがいいんです。僕の持つ情報を好きなように出来るし、完全なコントロールと著作権を持っているからね。アバンギャルドの美術文化から飛び出した時には、もっと日曜大工のような経験もしたし。僕は色々な場所に行って、どうしたらお金を使わずに生きることが出来て豊かに生きるかを学びましたしね。実際、他に映画の撮影をしたり、スチル写真のカメラマンとして時々働いて生計を立ててもいます。僕の生活はとてもシンプルなんですよ。車もクレジットカードも持ってないし、コンピュータは中古品ですし。僕は、自分自身でこういう人生を設計したんです。

北部ダルフールの病院で手当を受けているのは、アラブ兵士に銃で撃たれた犠牲者。©Mark Brecke

でもそれは、サンフランシスコに戻っている時、どんな影響を与えますか?現実感がありますか?

僕は、世界の大部分が誠実であり、自分が数少ない争いのゾーンからいつも戻ってこられていることを神に感謝しています。それは、沢山の物事や、自分が現在持っているものに感謝することを教えてくれるんです。人は、多くの不安や怒りに対処する方法を見つけなければなりません。…それらのエネルギーを、何か前向きなものに注入して欲しいと思います。でなければ、ただ自分が疲れ果ててしまいますからね。僕自身は、正しいバランスが取れていると思いますよ。それから、僕はまだ美術の世界に身をおいていて、作品の大部分はギャラリーに展示されています。それだけに時間を費やせないので、1年に1回か2回になってますけど。僕は、あらゆる現場へ跳ぶ報道カメラマンではないんです。それもまた凄く危険な仕事ですよね…。

食料を得るために、字が書けない彼らは、指紋でサインをさせられる。©Mark Brecke

…あなたのような仕事には、強い中毒性がありますよね。「戦場のフォトグラファー」という、ジェームス・ナクトウェイに関するドキュメンタリーは、いつも彼がどのようにして戻ってこなければならないかをとてもよく表していますね…。

僕は彼に対して深い敬意の念を抱いています。実際それは最も中毒性の強い職業の1つじゃないかと思いますよ。交戦地帯で仕事をしている時、自分自身それに夢中になっていると感じます。でも、自分では、僕のアプローチはとても人とは異なっていると考えてるんです。特に、自分がジャーナリストではないと思っていることでね。これこそが、僕が長い年月をどう動いたかということの基本にあるんです。僕は決してジャーナリストとして色々な場所に入っていかないし、万が一そうするとしたら、偽のプレスパスを作り、それを控え目に持ちます。場合によっては、コピーされたお金を使い、自分自身のビザを作成して…これはサンフランシスコの実験フィルム文化から出て来た、手荒なパンクロックの精神状態なんですよ。それは僕のバックグラウンドで、どうやってそれをより深刻な対象に適用したかということですね。でも、美術学校やジャーナリスト学校での講義で、僕がそれを人に薦めたことはありませんよ。でも、もしあなたがその道を選ぶとしたら、それは100パーセントの責任を負うことであり、そして、後戻りは出来ないのです。でも実際は、多くの人が、間違った理由によってそれをしているのを目にすると思います。特にイラクへの侵入の際…。

難民キャンプに入るには、まず家族の名前を登録しなければならない。©Mark Brecke

イラクに行かれたんですか?

二度行ってます。3月の侵入では海軍の中に閉じ込められましたが、その後、自分自身でもう一度行きました。その頃は既に現在の様子と同じ状態でしたよ。でも、2003年11月、誰もそれに関して本当の姿を書いてはいませんでした。


手当をうける反逆者。©Mark Brecke

“閉じ込められた”とはどんな状態なのでしょうか?

僕は、米国のラジオ放送局でこう言いました。「戦争のある無しに関わらず、3週間砂漠に男性たちと共に暮らすのが健全であると思わない」とね。それから、僕にとってそれは興味深いプロセスではありました。僕は軍にいたことは一度もありませんでしたが、この不当な戦争で戦わなければならない実際の軍人に対して多くの敬意を持っていますよ。彼らは自分の生まれ持った現実の厳しい環境から、ただ成功したいと願い来ているんです。以前にサンフランシスコで戦争に抗議したことがあるんですが…。その1週間後には、なんと僕はその中にいたんですよね!ある意味で、それは非常に制限された経験でした。僕は一人で動くのに慣れていて、軍と一緒に行動していると、それは常に準軍事的であるか、反乱軍であるか…つまり何も正式なものではないということです。アン・ナシリア市を通った時、我々の二人の兵士が殺されました。2人とも10代の若者でした。戦争に反対することは非常に簡単で、もちろん、戦争写真家として僕自身も絶対に反対の側です。そして、それは兵器メーカーや一部の政治家に対しては効果があることです。でも、もし実際に現場で攻撃される状況におかれたとしたら、あなたは、彼ら兵士が任務を遂行するのを望むはずです。なぜならば、もしそうしなければ、自分が殺されるか捕われるかすることになるからです。その場から戻って来て、どうしたらそれについて主観的に書くことができるでしょう? 一緒に閉じ込められた男達が、実際に自分の命を救ってくれたとしたら、彼らについて、何も否定的なことを言えるはずがありません。実際に射撃戦に直面したら、どうやってそこにただ座り、それを批評することができるでしょう?…出来ませんよ。そして、そういう心理的な影響こそが、国防総省によって計画されていたことなんですよ。

早朝には沢山のラクダがキャンプを通り過ぎる。2004年、北部ダルフールにて。©Mark Brecke

どのように軍とうまくやっていきましたか?

彼らは我々を最もバラバラの乗組員の中に入れたと思います。そこには、スケートボードをしながらダイナソーJr.を歌うフェニックス出身のパンクロッカーや、星条旗にたっぷり染まったカントリー・ウエスタンを聞く西テキサスからの貧しい白人労働者もいました。夜には多くの休み時間があったので、彼らはよく僕に尋ねましたよ。「戦争についてどう思う?」ってね。 インターネットなどで情報へのアクセスがとても速い今では、彼らは世の中で何が起こっているかちゃんと分かっているし、だからこそ懐疑的でもいます。「大量破壊兵器が全くないのに、僕らはなぜイラクに行くんだろう?」…戦争に反対しているGIも沢山いたし、彼らはこれに関してフランスの新聞社に語りました。「私はYouTubeで、私たちのボスであるラムズフェルドが1982年にサダム・フセインと握手しているのを見ました。それは一体何だったんでしょう?過去の戦争では、そういうことはありませんでしたよ。…過去の戦場にいたとき、そこでのモラルは決して高くはなかった。でも現在では、多分その10倍ひどいんです。」

マーク・ブレッカーさん、今回のお話では広い視野を与えて頂きました。本当にありがとうございました!

上映情報:
ゼイ・ターンド・イントゥ・アワ・デザート・ファイア」は、来週のサンパウロ国際映画祭と、2週間後のコロラド州ボウルダー国際フィルムシリーズで、試写を予定しています。

4 コメント

  1. はじめまして
    ひじょうにおもしろい。

    Posted by: hiro @ 10月15日2007年

  2. もっとぐろいもんやと思ってた

    Posted by: ぴこぽん @ 8月14日2008年

  3. acııkda baaa vir

    Posted by: goruntulu sohbet @ 7月22日2011年

  4. を見ました。それは一体何だったんでしょう?過去の戦争では、そういうことはありませんでしたよ。…過去の戦場にいたとき、そこでのモラルは決して高くはなかった。でも現在では、多分その10倍ひどいんです。」

    Posted by: ティンバーランド @ 12月9日2011年

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