レオ・フィッツモーリス:一時的なアートの介入

2007年4月4日 カテゴリー: イベント/展示会, インターナショナル, 特集

レオ・フィッツモーリス:一時的なアートの介入

イギリスの有名な量販店、アルゴスのカタログを使って制作されたレオ・フィッツモーリスの作品、「クレーターフォーム(噴火口)」。アルゴスでは大抵のものが手に入るが、特に素晴らしいのがこの分厚い無料カタログ!レオがこの手の込んだカタログを何ヶ月もかけて作製する社員について考えた後に、その本来の目的からは遠くかけ離れた姿にしてしまった結果がこの「クレーターフォーム」。彼の説明によれば、「このアルゴスのカタログのような、フルカラーの2,000ページにも亘る複雑なデザインは暗黒星のようなものですよ」とのこと。

2005年から2006年にかけて、芸術家レオ・フィッツモーリスは旅行者ならぬ「迂遠者」として旅をした。ベルリン、ロンドン、上海、スタヴァンゲル、チューリッヒを回って自宅のあるリヴァプールに戻ってくる間に、彼は訪れた先々で見つけたカタログ、チラシ、ダンボールなどをそれぞれの環境の中で組み換えることで、片手の指では数えきれないほどの一時的な作品を制作し、予想外の新しい意義を生み出してきた。その組み換えられたオブジェを公共の場や歩道に配置することによって、小さな一時的な介入という形のアートを創り出すのがレオ・フィッツモーリスだ。PingMagでは、彼の偶発的なオブジェの持論を更に詳しく知るために、ベルリンのジェネラル・パブリック・ギャラリーで本人から直接話を伺った。

作:レスリー・クオ
訳:山根夏実

ロンドンのモト・インターナショナルで行われた個展以来、レオ・フィッツモーリスが訪問したジェネラル・パブリックザ・ロイヤル・スタンダードアイランド6ローガラン・アートセンターK3の5都市のギャラリーも、街頭に端を発するの束の間のプロジェクトの残滓-彼の介入を物語る無料チラシの山-を室内で綺麗に展示している。これはレオにとっては一巡して始まりに戻るのと同義で、多彩な技法を駆使して主に使用するデザイン済みの印刷広告やパッケージングといった素材に新たな意味合いを与えている。

初期の印刷物を使った実験は、余ったチラシにインスピレーションを受けたもの:デザイン時間と印刷費をふんだんに注ぎ込んでも、イベント終了後にはまったくの無価値となるのがチラシ。本来の文章や画像による内容以外に何を伝えることができるのか?「ボックス・グルーピング・ウィズ・ブルーホワイト・アンド・グリーンバンズ」(左)では、レオはこのチラシを単なる縁連なりとして見せることによってスペクトルを形成している。「フライヤー・ワーク」シリーズのフロア・アレンジメントでは、本来の内容が、一部は残っているものの-大規模な色彩パターンに生まれ変わっている。

作品のあり方を凝結、要約するために、レオはそれぞれの技術と素材をさらに追求する実験を常に行っている。「ブルー(ウェッジ・フォーム)」は、チラシに使われる技法の最も興味深い点を要約する試み。このアレンジメントでは、文章や画像は一切判別できないようになっているが、それ以外の色彩や形状といった面が引き出されている。

手法

レオのスタジオやギャラリー作品に見られる「デザイン曲げ」には、ぎっしりと詰まれた四つ折りパンフレットの山を側面を下にして床に置き、山の一番上の面を徐々に地面に向かって傾がせただけの至ってシンプルなものもある。

その他の作品は、より複雑で再現的であるように見受けられる:商品の個装から印刷された文章をすべて丁寧に切り取ったものを並べると、角張った、四角い窓が面白い具合に配された家々からなる、妙に近代的な厚紙の街並みができあがる。新しいイメージとフォルムを浮かび上がらせるために、本来のデザイナーによるメッセージはここでもまた封印されている。

次に、レオは印刷された個包装を集めて、すべてのテキストを切り抜いてしまった。パッケージ・デザインは色と形だけで十分判別可能と思われるかもしれないが、レオはすべての文章を長方形の穴に置き換えると、建物、窓、ドアや構造物といった新しい意味合いが浮かび上がってくることを発見した。その色彩にちなんで、これらの作品は至ってシンプルに命名されている:「ホワイト・オン・グリーン(ストラクチャーズ)」。

この迂遠におけるレオと学芸員マリーアン・キーとのコラボレーションでは、現地の印刷物やパッケージングと都会的なメディアが組み合わさって、研究の対象は一般的な視覚素材から一般的な空間にまで及んでいる。

レオさん、デザイン済みの印刷物を使用するようになったのはいつ、どういった理由からだったのでしょうか?

いつの間にかそうしていたという感じでしょうか。私は画家の勉強をしてきましたが、昔から近くにあるものを組み換えることはしていて、その中でいつしか特定の時代の彫刻、例えばトニー・クラッグ の初期作品、ビル・ウッドローやウェントワースを研究するようになっていました。既にデザインされた印刷物に焦点を当てるようになったのはここ8年くらいのもので、その潜在性に気付き始めたのはせいぜい5年前だと思いますね。

「シリンダー」シリーズ:カタログ本もレオのお気に入りの素材の一つ。すべてのページが個々にデザイン、作成され、印刷して配布される複数ページの印刷物は、彼にとってはチラシに費やされた時間とエネルギーの神秘が更に増幅されたもの。この作品では、レオはページの端で中の手の届かない情報の索引となっているカラフルな模様以外は、一切読み手の目に触れないようにしている。

あなたが使用される素材自体のデザインについてはどう思いますか?肯定的、否定的、もしくは判断できないものですか?

私が材料に使う素材の大半は癪に障るものばかりですよ。でも面白いことに、一旦そういった素材を使い始めると、対象物としてもデザインのレベル的にも、それらの質の高さに気付き感服させられます。アルゴスのカタログ(タイトル画像参照)のような、完全カラーの2,000ページにも亘る複雑なデザインは、私にしてみれば暗黒星みたいなものですよ。

インスタレーションの細部:「ストラクチャーズ」シリーズのインスタレーション作品「フロアーワーク」では、レオは本来の目的を中断されたパッケージ素材を使用して極小都市を作っている。

それでは、仮にどの素材を使用するかの判断を下したり、どの広告や雑誌を変化させるかを選ぶとしたら、その基準はどういったものになるのでしょうか?

どれだけ入手しやすいかが一番の判断基準ですね。一番手に入りやすくて、目に飛び込んでくるものを使用しています。自分から素材を探すことはできるだけ避けていますね。どちらかというと、私が素材に選ばれているように感じます。

私が扱う素材の大半は、すぐに役目を終える、いくつものどうでもいいメッセージを大量に詰め込まれ、それをできるだけ大事に見せるように様々なデザイン作戦が駆使されたものばかりです。私の戦法はそういった手法を全て無効にして、その素材を私個人の目的のためだけに使用すること。こういった販売促進物のエネルギーは、まるで惑星目指して落ちる巨大な隕石ですよ。一つの目的のためだけに向けられているけれど、ほんの少しの影響で素材のエネルギーを丸ごと維持したままどうにかして方向を変えて、全然違う軌道に持っていける。

この「迂遠者」で、レオは見つけた素材をその環境の中でアレンジしなおしている。上海(左)では、使用済みのフライドポテトの容器を監視カメラのように設置し、マクドナルドの「どこに行っても逃れられない」面を視覚化してきた。またそのスタジオ技術を発揮して、チラシで催眠的な模様のウィンドウシート(右)も作っている。

使用する素材の本来のデザイナーやそのクライアントが、あなたのリミックスをどう思うかについて考えたことはありますか?批判とも賞賛とも、もしくは単に紛らわしいだけとも取れると思うのですが…。

多分、デザイナーは結構気に入ってくれるんじゃないかと思います。こういったデザインの中には、その洗練の度合いに反してほとんど自由のないものも見受けられますから。

ベルリンでの「迂遠者」:これらの見逃してしまいそうな介入も、足を止めて見る者には十分な見返りを与える。デザインを弄ってからゴミ箱の前に置かれたスーパー「リドル」の買い物袋。右の写真は、とても奇妙なピザの箱…。

しかしながら、クライアントの方は面白くないでしょうね…馬鹿にされたと感じるかもしれません。とは言え、イギリスのテスコのように、大企業の中にも自社のブランドを弄った作品を購入する会社はありますから、おそらく権力的・文化的な影響力の問題なのだと思います。私が子供だった頃は、テスコは皮肉っぽいブランドでした…当時のテスコは、現在のリドルと同じような存在だったのです。パンク風のロックミュージシャンが、革のジャケットの背中にテスコのロゴを入れていたのを覚えていますよ。あれはかなり羨ましかったですね…。

「ラビッツ」とニックネームされた、リヴァプールでの「迂遠者」の介入:相次ぐインスピレーションの到来に、地面を這いずり回ってゴミ袋のウサギに階段で最も居心地の良い場所を探すレオを想像するとちょっと面白いかも…。

「迂遠者」は、レオがより自然発生的な方法で作業するためのもの:単純にブラブラ歩いて、見て回って、発見することで、普段なら絶対に近付かないであろう素材や場所を使用している。チューリッヒ(左)では、彼はペットボトルのフタと歩道のひび割れを組み合わせてきた。場合によっては、リヴァプールでのこの作品のように(右)既存の技法を現地の構造体に適用することもしている。

あなたは公共の場に興味を持っていて、今やそれが徐々になくなりつつあると仰っていましたが、物理的に消えてなくなっていくという意味なのか、それとも視覚的、商業的なものの進出によって、むしろ圧倒さているという意味なのでしょうか?

イギリスでは、多くの公共の場が開発会社に売りに出されて-公園やサッカー場などが特に-徐々に消えていっていますが、私が言っているのはそういった意味ではありません。今では、私たちはより多くの時間をモニターの前や雑誌に釘付けになって、MP3プレイヤーを聴きながら過ごしますから、その時とその場所に自分がいる空間をあまり意識しなくなっているのです。

ミシェル・ド・セルトーの「日常的実践のポイエティーク」を読んで気付いたのですが、私のやっていること(そして私たちが誰しも多かれ少なかれやっていること)は公共の場を消費することであり、それを消費することによって、ある意味自分だけのものにしている、ひいてはある程度私有化することに繋がっている。ですが私たちは今、他の様々なものに時間を消費していっています…。

リヴァプールでの「迂遠者」:まるで元々こういうデザインだったかのよう。しかし、一言も文章のないポスターを貼る人がいるものだろうか?レオはマーカーを片手に、このポスターの泡の部分以外のすべてを黒く塗りつぶして、その下のデザインがまったく見えないようにしてしまった…。

あなたの、そして将来的には他の方々にも参加していただきたい。この公共の場に関するポジティブな活動を表現するのに、あなたは「私有化(民営化)」「消費」など、時として企業や消費者文化を批判的に表現するために用いられる単語を使っておられますね。これは意図的なものなのでしょうか?この言葉を開拓しようとしているのか、それとも活動を開拓しようとしていらっしゃるのでしょうか?

私としては、何らかの方法で活動を開拓することの方に興味を持っています。その方がきっと面白いと思うので。

ここにも巧妙な作品が!「アレンジメント・イン・ビン(スペクトラム)」は「迂遠者」に先行して行われた屋外実験。実際には、固く折りたたまれたポテトチップスの袋をゴミ箱の隙間に詰め込んだだけ!

ご自身の作品を通して、公共の場をどうしたいとお考えですか?ご自分の介入で、通行人にどういった影響を与えたいのでしょうか?

私は人々が身の回りの可能性をもっと意識できるように、規定されていない素材や空間を消費するように働きかけていきたいと思っています。

私は何かを何らかの形で自分のものにしたいと考えてはいますが、それを他の人々との対話にも繋げたい。人々に、A地点からB地点までを目的地として考えてほしい。道や駐車場の端も公共の場です。私は自分の足が地面に接している感覚が好きで、人が通り過ぎていく場所で止まりたがる。私は自分の-そして他の人々の-空間を創り出したいのです。

レオ・フィッツモーリスさん、精巧且つ皮肉な「迂遠者」の組み換え作品のお話をありがとうございました!

2 コメント

  1. süper site buyrun

    Posted by: goruntulu sohbet @ 7月25日2011年

  2. レオ・フィッツモーリス:一時的なアートの介入 good post1149

    Posted by: air multiplier @ 4月21日2012年

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