『アート&テクノロジーの過去と未来』展

2005年11月28日 カテゴリー: イベント/展示会, テクノロジー, プロダクト, 特集

『アート&テクノロジーの過去と未来』展

ヨシダミノルの『バイセクシャル・フラワー』(1970)

新宿にあるNTT インターコミュニケーション・センター[ICC]は、すばらしい一年を、模範的かつ包括的な回顧展で締めくくろうとしている。この回顧展は、戦後の日本社会、そして戦後の経済成長と足並みをそろえてきた(そして時には、それを凌駕してきた)日本の新しいアートについて検証しているものだ。常にキュレーターによって一流の展覧会を提供してきたICCであるが(電気通信会社の巨人であるNTTが負担している十分な展示会予算が、この事を可能にしてきた一因であると思われるが)、今回も豊かな才能にあふれるインタラクティブアートなどの日本のニューメディアとともに、プライベートコレクションや美術館から貸し出された歴史的な作品とがバランスよく展示されていた。無数にある日本の新しいアートの形と、戦後のテクノロジー発展の成果とが絡み合い始めている今、『アート&テクノロジーの過去と未来』展は時代を概観するすばらしい手がかりになる事であろう。

作者:トム・フライヤー
訳:キョウコ


田中敦子の『作品(ベル)』(1955/2005)

ICCに設置された幾つかの『作品(ベル)』の内の一つ

『アート&テクノロジーの過去と未来』展では、日本の戦後期の文化的興味—海外からの新しい創造的影響に飛びついた事、テクノロジーとの分裂症的関係、日本のポップカルチャーとなったテクニカラー・メディアという化け物の中での戦争体験に対する反芻—の大きな流れを表している。本展覧会では、出展アーティストが影響を受けてきたものはほとんど同じ分野のものであるのにも関わらず、「オタク」に関して取り上げる事を全くと言っていいほど回避していた。今回の展示では伝統的なロボット作品はたったの一つしか見つける事が出来なかったし、(阿部修也とナムジュン・パイクによる弱々しいが愛嬌のある「ロボット K-456(1964-1974)」)普通の感覚を持つ日本人はこの作品は期待はずれであったろうと思う。


阿部修也+ナムジュン・パイクの『ロボット K-456』

中沢潮の『不定形における夢幻』 (1963/2005)

NYジャパン・ソサエティのギャラリーで今年の始めに開催された村上隆キュレーションの日本ポップアート展『リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー』で表現されていた、消費文化から生まれたオタクのポップアートは、この展示では避けられていた。その代わりに、展覧会はICCが「エクスペリメンツー実験」と呼ぶ分野に特に力を入れていた。この「実験」という言葉からは、アーティストが幅広い活動を通して、大きな目標のために創作を行ってきたというような意味が伺われる。そして、日本の戦後の生活がどのように展開されたかを考えると、すべての人々が知らず知らずのうちにテクノロジーのしもべになっていたようにも思われる。そして一度は尊ばれてきた伝統のいくつかを犠牲にしたことも確かである。しかしながら、これらのアーティストはこのような状態への動きを加速させたのであろうか?それとも単に、この変化を記録したに過ぎないのであろうか?


佐藤慶次郎の『エレクトロニック・ラーガ』(1967/1980)

佐藤慶次郎の『エレクトロニック・ラーガ』(1967/1980)

人によっては、この展覧会は「インタラクティヴィティ(双方向性)」についてだと思うかもしれない。(この映像は はマシンとユーザーのインタラクティヴィのいい例であるとおもう。)しかしながら、すぐに明らかになって来るのは、テクノロジーがユーザーを操るほどの影響力を持っているかどうかに関して、それぞれのアーティストが違った見解を持って分立しているという点だ。我々は、テクノロジーを我々がだんだん上手くコントロールできる現象として見がちだが、車と我々の関係を見てもらえば分かるが、究極的には我々の生活の標準を下げるという体質があるのにも関わらず車を作り続けているように、我々のコントロールは、いろいろな要素によって支配されている。『アート&テクノロジーの過去と未来』展は、いかに現代のテクノロジーが救済、促進、誘惑、そして行動を鋳型にはめる能力に満ちているかを巧みに照らし出している。『アート&テクノロジーの過去と未来』展のカタログでは、人間が「uccessfully connecting…never palls(無事に接続され・・・決して衰えない)」事への奴隷状態である事を暗示しているが、ICCを訪れた観客が、この展示のインタラクティブ作品の内容に満足げな様子であるのを見ると、テクノロジーは、開発という名のもとに、一方通行で発展した訳ではなかったことが伺える。


クワクボリョウタの『fluid』(2005)

『fluid』で楽しむ観客

小道具の発明者、クワクボリョウタの『fluid』(2005)は、少なくとも過去20年の間にエレクトロニック音楽に手を出した人間にとってはそう斬新なアイデアではなかった。しかしながら、彼はフォーマットを新たにし、エレクトロニック音楽の生演奏の本質を引き出して携帯型のフォーマットに収める事に成功している。fluidのユニットは、まるで販売されている製品のような仕上がりであったし、また彼の素晴らしいウェブサイトを見れば、高級感がありながらも、商業的にはあり得ないプロダクト(ソフトでもハード面でも)に取り組んできた彼の幅広い経歴を知る事が出来る。ここで使われている大量生産のような仕上がりが、原始的な打ち込み音と、音の長さを決めるツールを簡単に理解する手助けをしている。よってユーザーはfluidを叩いてみたり、基本のシンセサイザー音をさせてみたり、ノイズをループさせたり、テンポを変化させたりする事が出来る。ほとんどの人々をナイトクラブのかわりに、(展示室である)白くて広い部屋に一人きりになってfluidに触れてみたいと思わせるような展示になっていたが、ど素人でも、自宅でプロデュース業でもしているかのようなグラマーさを一瞬味わう事が出来ると思う。もしかしたら、一番楽しいのは、壁に流れている映像かもしれない。この映像では、2人の紳士(うち一人はクワクボ氏本人か?)が、2つのFluidのユニットを使って、とても真剣なジャムにふけってる様子が映し出されているが、彼らは私の音よりもずっといい音を作り出していた。


クワクボリョウタの『fluid』(2005)使い方の説明図

『fluid』のデモ映像

クワクボの作品は、インターフェースとパフォーマンスのアイデアについて触れていたが、これは現在よく見受けられる状況—通勤、通学する人間が、都市環境の中を(近代で約束された「つながり」とは対照的に)個々を孤立させ和ませるパーソナルオーディオのテクノロジーを握りしめながら闊歩している事—へのタイムリーな対抗策であると言える。この携帯できるエレクトロ・ラジオ・演奏ユニットは、音楽、ビデオ、写真や文章を共有できるインターネットの掲示板のようなメディアに近いかもしれない。ここでアーティストクワクボが、新たな力強いマシンとともに提供しているのは、仲間のプレーヤー達と「つながる」事である。


江渡浩一郎の『Modulobe』(2005)。進化の模様がリアルタイムで楽しめる

Modulobe』のいくつかのモデル

他にも、ユーザーが究極の創造主としても参加出来るようにする事で、このコンセプトを次の段階まで発展させていたごく最近の作品があった。PingMagに以前登場した江渡浩一郎の『モデュロープ(Modulope project)』(2005)では、一瞬自分が蛇になったような体験をした。この上なく素晴らしいソフトウェアによって(シンプルなCADの応用によって)ユーザーは限られた部品の一覧から、生き物を作り出す事が出来る。(少しだけMeccano—組み立て式玩具に似ている)。ユーザーは関節の数を決めたり、手足の柔軟性、他の付属機器についても決定を下す。また、アニメーションのパーツを作り、取り付ける事も出来る。 出来上がったデザインを保存した後、ユーザーは3つのビデオ映像が映し出されている目の前に設置してある3つの台座まで進み出る。


江渡浩一郎の『Modulobe』(2005)。インストラクションと、コントローラ

生き物をモデリングしてみる

それぞれの映像は、CADによってデザインされた生き物が映し出されており、トラックボールによってコントロールする事が出来る。この作品には「ゴール」はない。ただ、ボールを動かす事によって、自分で作り出した(または人が作った)生き物を、グリッドの環境の中で動かして行く。台座を叩くと、生き物は空中にジャンプする。生き物が大きければ大きい程、強く叩かないと空中に浮かせる事が出来ない。そして空中にいると生き物達は不安定になるので、時折地面に逆さに着地したり、自分の力では正しい姿勢に戻れなくなったりする。プレイしていると、他人が作った安定感がある優秀なデザインに感銘を受ける事になるが、またスタジオまで戻って、自分の生き物をよりよく進化させて再挑戦する事も出来る。


江渡浩一郎の『Modulobe』(2005)。進化の模様がリアルタイムで楽しめる

生き物が動く様

江渡浩一郎の『Modulobe』(2005)。進化の模様がリアルタイムで楽しめる

生き物が動く様

ここで出会った中で一番よくデザインされていたものは、三角形の要素で作り上げられていたへびのような生き物だった。不毛の地で、「コア」またはヘッド・モデュールがすごい勢いで進歩していく様をコントロールしてみると、リアル・タイムで生成されるアニメーションの素晴らしさと説得力がとても印象に残った。そのへびが、困難をズルズルと抜け出してまた進みだすのを見るためだけに、わざと苦境に立たせてみたくなったものだった。江渡の素晴らしく分かりやすいGUIのユーザビリティによって、デザインと、作品のコントロールを司る部分が統一されていた。このように幻想的な生き物を作り出したり、動かしたりする事にかんしては、この作品はまだ初期段階にあるかもしれない。しかし結果的には私のような懐疑的なゲーマーにでさえ、とても魅力的なゲームに仕上がっていた。このような感覚が、いつか当たり前の事になるのだろうか?ナビゲーションシステムから、戦術的な戦闘シミュレーションでまで使われるようになるのだろうか? 我々はアーティスト達を文化の予言者として見ているのだろうか?それとも文化のナビゲーター?江渡は以前、我々が、実は目に見えないデータの環境の中で生きている事を地図 にして表したが、これもとても興味深い。

同じような疑問が、展示されていた映像作品の中でも投げかけられていた。松本俊夫による70年代のショート・フィルムは、最初平凡なサイケデリックな映像にしか見えないが、医学や工学用(に開発されたコンピュータの測定装置を使って)の映像技術を日本のメディア・アートに取り入れた先駆者という事実を知ると、彼の想像力に気付かざるを得ない。そして、彼の作品が80年代初頭、ポスト・プロダクションが、アナログからデジタルへと移行した事の素晴らしい記録映像にもなっている事に強い感銘を受ける事になるのだ。究極的には、カウンター・カルチュラル・メッセージを普及させる役目を果たしている(10年以上遅いのにもかかわらず、だ)。彼は過去の思い出の中で生きて来たかもしれないが、彼は、自身のビジョンに対して誠実であった。彼の後期の作品は、ぞっとするほど数年前のマッキントッシュのスクリーンセーバーにそっくりだが、彼らより20年以上も早かった。


CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の『Shot Kennedy No.2』

CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の『Shot Kennedy No.2』ディテール

CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の作品

CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の作品ディテール

他に先駆者と言えばCTG(コンピュータ・テクニック・グループ)が挙げられる。CTGのメンバー達は「実験」において、幅広いメディアで活躍してきた。彼らの奇妙で美しいグラフィック作品が(LEDののような輝きをはらんでいるが)、ほぼ40年たった今でもとても新鮮に見えるため、グラフィック・デザインに関する感性が現在あまり進歩していない事を浮き彫りにする形となった。これらのデジタル・イメージング初期の実験作品が、コンテンツのインタラクティブ性を求めて奮闘した証拠をここで見る事が出来る。現在のメディアの美的感覚の中で育って来た普通の日本人の観客は、そのルーツとなった作品がここで展示されている事に気付かず、ただ通り過ぎるだけの人もいた。


CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の作品

CTG(コンピュータ・テクニック・グループ)の作品

他に心に残った初期の作品では、次のような事が明らかにされていた。日本が新しい経済大国、技術大国となった結果、ニュー・メディアを使う若いアーティスト達が十分な手段を手にし始めたという事だ。実験工房の作品からは、緊迫した空気が感じられた。彼らの50年代初期の作品は、戦前のヨーロッパのモダニズムに根ざしていたが、彼らの映像作品、アニメーション、パフォーマンスそしてサウンドの手法は、ニュー・メディアのDIY精神に満ちており、このようなアプローチは、この時代画期的な事だったに違いない。振り返ってみれば、海外から新しく入って来たアートは、身近なテクノロジーの発達の早さに遅れをとってしまったようだ。


小林はくどうのビデオ作品『くにたちビデオひろば ゴミの分別 ダイジェスト編』

小林はくどうのビデオ作品『くにたちビデオひろば ゴミの分別 ダイジェスト編』

飯村隆彦の不思議な映像は、何十年たった今でもダダイスティックな要素を含んでいるが、ドーナツ化現象で郊外に住む退屈した若者達が、クリエイティブな分野で生計を立てようと奮闘する姿を描いている作品は、予言的でもある。小林はくどうが、70年代半ばにシーンに登場したときには、日本のメディア・アートは、十分な立場を確立しつつあったようだ。小林の映像作品は、清掃作業員がゴミ回収に回るところや、道ばたで主婦と話をしている所を撮影しており、まるで社会調査のように見える。しかもそれは、映像の新しい形であったようにも思える。そして、このすべての実験が終わった後、実験を行なった者達は、自らの進むべき道を見つけたようだ。小林と、アメリカ人アーティスト、ビル・ヴィオラ(Bill Viola) の遠距離ながらも長い友人関係は、通信力とそしてスピリチュアルな啓蒙力さえも持ったビデオというメディアを中心に展開した。しかしもっと興味深いのは、この二人のビデオアートのパイオニアたちが、遠くからでも共通の展望をシェアした事が見て取れた点だった。


岩井俊雄の『時間層II』(1985)

小さな紙の人形が、ものすごい早さで動いている

ヨシダミノルの『シンセサイザー・ジャケット』(1974/2000)

『シンセサイザー・ジャケット』を着たヨシダ(1974)

『アート&テクノロジーの過去と未来』展のキネティック・アート作品群では、とても感銘を受ける作品に出会えたのと同時に、恐らく小さな動力装置が開発された、などのテクノロジーの発展に感謝をする というような観点から今回の展示に選ばれたのではないかと思われる、あまり興味を引かれない作品も体験することができた。岩井俊雄 の作品、『時間層II』(1985)はとても神秘的でうっとりするような作品で、電子音のサウンドトラックとともに、大変満足した。そしてヨシダミノルの『バイセクシャル・フラワー』(1970) は大変奇妙で、訪れた人は決して見逃さない事であろう。作品に関するリサーチをしていない状態では、1994年にシドニー周辺で行なわれたレイブショーで見た光景となんとなく似ているな、という程の感想しか持てなかった。しかし、佐藤慶次郎キネティック作品集は、気に障るほど、Memphisの家具によく似ていたし、本物のコンセプトを持つの代わりに、見た目の美しさだけに頼っているような作品に感じられた。もちろん、(何となく、銀行の宣伝グッズのようにも感じられる作品だが)それはそれで悪い事はないが、このような意欲的な展覧会に出展されているの、コミュニケーション・ダイアログや、ヒューマン・インタラクションの分野ので時代に先駆けた他のアーティスト達の作品と調和しないような気がした。


三上晴子+市川創太の『gravicells[グラヴィセルズ]─重力と抵抗』(2004)

三上晴子+市川創太の『gravicells[グラヴィセルズ]─重力と抵抗』(2004)

『アート&テクノロジーの過去と未来』展で一番魅力的だった作品は、三上晴子と市川創太の巨大なインスタレーション作品、『gravicells』(2004)だったと思う。理由は多分、この作品で人間はただの純粋なデータとなり、リアルタイムでグラフ上描かれ、没入型の環境を作りし、その中で動き回る事が出来るからだ。経験豊かなメディア・アーティストである三上と、建築家の市川は、まるで第六感のように、重力をもっと身近なものとして理解できるようなフィードバック・ループを作り上げていた。

暗い部屋の中、床には大きなタイル張りの四角いエリアがあり、そのエリアには平行するラインがプロジェクションされている。壁のプロジェクションでは、床のエリアをグリッドとしてとらえたものが映し出されている。タイルを一歩進むと、床にかかった圧力とその足の置かれた場所は、水流のような映像で(正確な場所に)表現される。しかしもっと素晴らしいのは、自分の動きは、壁に映し出された3Dのデータのグリッドがくるくる回りながら膨張する事でも表現されるのだ。 この作品は、示唆に富み、薄気味悪さもありながら、とても功名で素晴らしい作品だ。この作品は、数人の観客とともに一緒に楽しむとますます面白い。みんなが、一体何が起こっているのか理解しようとしながらも、大きな動きをして目立つ事は恥ずかしいと見えて、牽制し合っていたからだ。


三上晴子+市川創太の『gravicells[グラヴィセルズ]─重力と抵抗』(2004)

三上晴子+市川創太の『gravicells[グラヴィセルズ]─重力と抵抗』(2004)

ユーザーの立ち位置を計算して、システムが映像を作り出す

『gravicells』の計算チャート(2004)

今回展示されていた多くの作品は、アートとテクノロジーの現在進行中の関係を雄弁に物語っていた。それはまるで、データとして描かれた自分たちを見たり、自分たちが世界に与える影響をチャートにして見る様な事だが、テクノロジーは単なる便利なツールではなく、もっと重要な何かである事を自ら証明してみせていた。テクノロジーは、自分の姿を映し出す媒体となった。人間が作り出したものの中には、フランケンシュタインのような恐ろしい発明もあった。しかしだからこそ、人類は、自らが作ったマシンで自分達のレプリカ作りに挑戦するのにふさわしい生き物であると言えるかもしれない。

私がここで取り上げたのは、『アート&テクノロジーの過去と未来』展によって編纂された戦後のアートとテクノロジーの歴史の一部に過ぎない。この展覧会は、新宿のNTT インターコミュニケーション・センター[ICC]にて、12月25日まで開催されている。ぜひ訪れて、この素晴らしい会場を経験して欲しいと思う。

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